経営哲学

地域に根ざすプロのための専門店づくり

経営理念

お客様の満足を追求し

従業員が誇りを持てる

企業を目指します

創業の精神

一、お客様の立場で対応しよう

一、おだやかな言葉につとめよう

一、お互いを思いやる余裕を持とう

一、仕事の使命感を持とう

一、常に学んで行こう

会社方針

一、お客様のお役に立てる企業作りに取り組みます

二、「地域一番店」を目指す店作りに取り組みます

三、すべてのニーズに応えるチェーン展開に取り組みます

四、プロとして自覚と責任を持って仕事に取り組みます

五、従業員が安心して働ける職場作りに取り組みます

かねやすの歩み 第四章 プロショップとしての使命

第四章 プロショップとしての使命


プロのニーズに応えるべく
店舗ネットワークの拡大へ
半世紀越しの夢は現実となった

花咲かす季節が巡ってきた

平成5年に本社を野芥店から福重店へ移すと、その翌年の平成6年に前原店、平成8年に篠栗店を出店。東西エリアへと勢力を拡大。その間、平成7年には、大阪で働いていた董美の長男・徹雄が『かねやす』に入社。三本柱のひとつとして、さまざまな成果を上げ貢献する。

そして平成9年、本社・福重を現在の社屋に立て直し、コンピューター・システムを最新の技術に改革。平成10年に資本を増資し、組織基盤をより大きく成長させたのであった。

ちょうど時代は20世紀末。ミレニアムに世間は沸き、21世紀幕開けへのカウントダウンがはじまっていた。『かねやす』は創業30周年を目前に控え、強くたくましく育ててきた幹から、さらに枝をのばし、ようやくその花を咲かせようとしていた。創業当初からの計画通り、『かねやす』は」ここから、さらに店舗を出店し、エリアを広げていく。

当時の目標は10店舗。店舗を増やし、エリアを拡大するには、それなりの理由があってのことだった。それは、本物のプロショップとして、多岐に渡るプロの要望にしっかりと応えていかなければならなかったからである。より複雑になっていく注文内容と、それを供給する際のスピードへの要求に応えていくためには、拠点を増やし、より広範囲のエリアをカバーする体制をもってのぞむことが、必要になっていったのだ。また、そのようなニーズが『かねやす』に集まるということは、それだけ『かねやす』がプロショップとして建設・土木のプロたちから認められ、30年という月日をかけてようやく社会に不可欠な存在として認知されてきたことの証でもあった。

「この多店舗展開の体制が整えば、『かねやす』はさらなる次のステージへと企業成長の場を向上させることができる」。たくさんの花を咲かすことで、さらに夢が膨らむ。新しい門出の季節を迎えていた。そして平成12年の太宰府店開店を皮切りに、創業30周年を迎えた後、元岡点、福間店、香椎店(新築移転)、博多南店と5年間で5店舗を出店。大きく舵をきってさらなる大海原へと船出をはじめることとなる。

新しいプロショップとして

新しい体制づくりに向かって、出店を続けていた時期と時を同じくして、『かねやす』社内でも、新しい時代を迎えるための体制づくりの準備が行われていた。

新店の出店を董美、俊雄、徹雄の三者が役割を分担しながら展開して行く中で、会社全体の運営に関わる主な実務を、徹雄が引き継いでいく。その時をきっかけに、業務の改革や新たな営業戦略が次々に行われていった。そう、今の『かねやす』の原型ともいえる、さらなるプロショップとしての新しい『かねやす』の骨組みを形成していったのがこの時期でもあったのだ。そして、香椎店の新築移転が完了した翌年、平成17年に徹雄が代表取締役社長に就任。新たな時代の幕開けを予告する、世代交代。大阪から戻り、『かねやす』で働き出して、ちょうど丸10年を迎えた頃だった。

「代表に就任して博多南店を出店するとき、今後は出店をしてエリアを拡大していくのではなく、地域に根ざした企業として『かねやす』の在り方、またプロショップとしての『かねやす』が持っている強みをもう一度つくり上げていこうと決めていました。もちろん、これまでの歴史の上に」。この徹雄の決断が分岐となり、先が見えない時代にあってもその行く先を見失わない『かねやす』という堅実な船は、新たな航路と船長を手に入れ、プロショップとしての大公開への再出発を切ることになったのである。

…創業当時のことを振り返り、董美が発した言葉にこんな一節があった。「企業運営で何が大事でしょうか」という問いに対して、「いくつかありますがね…」。「『決断力』。これは非常に大切ですね」

プロショップとしての使命と決断。それが『かねやす』の根幹を担っているのだ。16歳の董美が抱いた夢は、俊雄との二人三脚の時代を経て、徹雄をはじめ社員のすべてに、しっかりとその精神が継承されている。

そして今、『かねやす』はプロショップとして40年間歩んできた道のりを胸に刻み、どんな時代の荒波にも怯まない、堅実な企業として、「終わりなき新たな航海」に挑んでいる。

プロショップとしての使命と誇りは
未来へと受け継がれ続ける―――――

かねやすの歩み 第三章 小さくても強い企業

第三章 小さくても強い企業


日本経済の飛躍と同じ角度で
企業として、プロショップとして『かねやす』の成長線は右肩上がり
そこには鉄の掟があった

叱る、褒める、伸びる

「室見川より西は、必ず栄える」。董美は、以前からそんな情報を耳にしていた。若い頃から情報収集、勉強、実践がモットーだった董美。それが功を奏す。株式会社設立後、福重店を開設。創業十周年以降は野芥、福重を改装と、苦労はしながらも弟と二人三脚の会社運営が勢いに乗ってそのスピードを加速させて行った。

時代は、戦争に翻弄された後、誰もが同じ方向を見てがむしゃらになって働いた「昭和」から、バブル経済、そして価値観の崩壊を迎える「平成」の時代へと移行しようとしていた。

平成3年、時代の変革に対応し、規模を拡大させた『かねやす』はめでたく20周年を迎える。初めは独立、そして次にプロショップとしての商品構成、さらには自分の土地と店舗というように、夢の階段を駆け上がってきた董美だが、実は『かねやす』創業当時から、すでに10年後、20年後、30年後、40年後と組織を成長させながら店舗のチェーン展開を図って行くという企業拡大の青写真をかなり明確に抱いていたという。目指したのは、時代に流されない「小さくても強い企業」。それには「器(店)」だけではなく、「心(人)」が重要。そのことへの理解を数々の経験から十分に深めていた董美は、社員教育にもその手腕を発揮していく。

「よく指摘していただいたのですが、小さなネジ1本、商品の砂が少しでもこぼれ落ちていると『ほれほれ、お客さんとお金が落ちているよ』と。ダンボールの切り方ひとつも『ムダがあっては自分が損をするよ』、掃除のひと動作も『拭くのではなく、磨かないと輝かない』と。新入社員のころ、トイレ掃除をするとき『こうやってするんよ』と自ら便器を磨く手本をみせる姿に衝撃を覚えましたよね。今思えば、本当にありがたい。」と眞鍋統括部長やそのころ新入社員として入社した濱田商品部長は語る。

「叱るだけではだめ、いい事をしたら心の底から褒める。そうすれば人は必ず伸びる」。それを忙しい業務の中で、身をもって教えるのは容易なことではない。なぜならそこには叱る、褒める側の人間の心の度量と辛抱強さが求められるから。だが、董美はそこにこだわり続けた。それは青年期から社会の荒波にもまれた人生の中で、プロショップとして、プロのお客様に喜んでもらうには、プロの企業人が絶対に必要なのだという確信があったからでもあった。

「この話には続きがあって、社長(董美)にこれでもかとこっぴどく叱られた後、必ず専務(俊雄)が知らん顔して『今日、飲みにでも行こうか』とくるわけですよ」と眞鍋統括部長がニコリッと笑う。「アメとムチ」。現代社会ではもはや古臭いフレーズなのかもしれないが、今の『かねやす』を見れば、それが人材を強くする根本原理であることがよくわかる。それを根拠に『かねやす』創業の精神5ヵ条は未だ一語一句違わずに受け継がれている。

時代を先取りした改革で躍進

器も心もそろいつつあった。ただ、まだ職場の作業は手作業が普通の時代。数万点にもおよぶ商品の管理、数千に及ぶ顧客、会社の発注書・請求書を処理する仕事量はすさまじいものだった。ともすれば、それだけで日々過ぎて行く。そこで董美と俊雄は商品管理や伝票管理を全店コンピューター・ネットワークでつなぎ管理するコンピューター・システムの導入に着手する。今では当たり前だが、業界ではまだまだ事例がない頃の話だ。「まだパソコン自体が普及していないときですからね。右も左もわからないところからの挑戦でしたよ。一つひとつの商品情報をデータ化してコード付けするだけでも、それは想像を絶するほど大変でしたね。」

その任務の実践をまかされた俊雄は、持ち前の知識力と器用さを武器に自力でその道を極め、立派なシステム完成へとこぎ着けたのであった。その後、社長の座を任された俊雄は、店舗設計や新店立ち上げを仕切りながら、2度のシステム移行と、ISO取得など『かねやす』の業務基盤を次々と築き上げていく。

かねやすの歩み 第二章 すべてを懸けた原点

第二章 すべてを懸けた原点


満を持して、ふたりの男が動き出した。
一心不乱。無我夢中。
夢の実現を懸けた日々がはじまった。
もう、後戻りはできない。

昭和46年3月。ついに『かねやす』の時計は時を刻みはじめた。

福岡市早良区飯倉。すべてはここから始まりました。全財産を懸け、やっと手にした小さな借店舗。1階の店舗はわずか5坪弱、2階の住居では4畳半と6畳の2間に家族5人が肩を寄せ合って暮らす毎日。16歳の董美青年が、あの日夢にまでみた独立だった。だが当時、その手狭な店のわずかな棚を、やかんや調理器具といった一般向けの低価格商品で埋めることすら、精一杯だった。「それはもうね、なりふり構わず、死にものぐるいで働きましたよ。ここで失敗したらもう私たちには帰る場所はないんだからって。絶対に成功してやるんだという覚悟を決めていたんですね。本当に5年間、盆と正月以外は休まず。子どもが何をしようが、仕事のみ。親戚に不幸があっても出られなかった。それくらいなりふりかまわず仕事一筋だった」。

董美と同じく、両親を早くに亡くした妻・光子もまた同じ心境だった。「仕事以外は運動会があろうが何があろうが、仕事しかしていませんでした。下の子をおんぶして、ずっと店番。おかげで、子どもはしっかりとした子になりましたけどね」。確かに家族アルバムにはこのころの写真が1枚もない。そんな暇も余裕もなかった、朝6時から夜9時まで働きっぱなし。董美は当初、タクシー運転手をしながらの2足の草鞋。毎日の睡眠は約3時間。寝る暇も惜しんで働いた。半年もそんな生活を続けたのだ。病気ひとつしたことがない董美も、さすがに無理がたたり身体を壊しかけそうになる。

そんなときでも、大分での経験が頭をよぎる。「プロショップにしなくては…」。だが資金もなく、すぐにはプロの道具は揃えられない。ならばと、当時の金物店としては異例な方針に出る。当時は団地など住宅が建設ラッシュ。まず手始めに、物干の行商やカーテンレールの取り付け・交換、物置の組み立て、日用品の修理など、お客のかゆいところに手が届くサービスを行ったところ、これが大評判に。口コミで注文は増える一方。でも人手が足りない。そんなとき、心強い味方ができた。弟の俊雄夫婦だ。

俊雄は兄を追うようにして、福岡商業に進学後、『かねやす』創業当時はスーパーの一角のテナントで食品業を営んでいた。兄からは「いつか俊雄のところの売上を抜いたら、ぜひ俺の手伝いをしてくれ」と頼まれ、俊雄も承諾していたのだという。その俊雄夫婦が手伝いをかって出てくれたのだ。「初めて見る車庫のサンルーフなんかも、勉強してつくりました」。今も技術に長けた俊雄は、当時から器用で勉強熱心だった。

そんな味方を手にした『かねやす』は徐々に力をつけ、プロ用の鉋(カンナ)や高級砥石などを置きはじめ、プロショップとして片鱗をかたちづくっていく。そして、開店から5年を迎えようかとしていたとき、ついに土地から購入した念願の自分たちの店、野芥店の開店にこぎつける。光子がふと新聞でみつけた土地といい、資金面での苦労もあったが、同郷の銀行担当者に巡り会えるなど、いろいろと必然のような偶然に助けられた。「本当に大変だったけど、今となってはその5年間で、『かねやす』の基礎が出来上がったように思います」。開店から5周年目、組織を法人化。晴れて『株式会社かねやす』がここに誕生したのだった。

かねやすの歩み 第一章 明日に誓った日々

『株式会社かねやす 40周年記念誌』より

第一章 明日に誓った日々


大志を胸に秘めた青年が博多駅で肩を組んだ。
まだ彼らは自分の未来を知る由もない。
ただ、この二人の男が出会ったときから、すでに『かねやす』の歴史ははじまっていた。

運命的な出会いの中で

日本が第二次世界大戦へと突入しようとしていた、昭和14年の夏。湯布院の奥山に佇む風光明媚な歴史ある温泉地・湯平で安光董美はこの世に生授かる。やすらぎの大自然が残る故郷を舞台に、元気いっぱいの7人兄弟の中で育った董美だったが、小学校1年生の時、早くして母に先立たれてしまう。

「その当時ね、小学校1年生から4年生まで担任だった女性の先生がいまして。本当によくしてくれたんです」。その頃は戦後間もなく、世間のほとんどが貧しかった時代。にもかかわらず、その先生は卒業して、自分の手元を離れ進学した董美を心配し、毎月500円もの仕送りをしてくれていたのだ。「感謝しても、しきれない」。先生との縁はこの後も董美の大事な岐路の時に手をさしのべてくれる。

そして、16歳の時。大分郡部からは狭き門だった名門・大分商業の夜間部へ進学。「当時は普通科より、商業系の希望者がほとんどだった」。無理がいえない家庭環境のこともあり、住み込みで働きながら通うことになった董美。だが、その矢先、一学期が終わる頃、父が亡くなる。「親父が死んだら、もうひとりで生きていくしかない。ただ、そのことだけを考えました」。董美、当時まだ16歳。ただでさえ心が揺れ動く時期。明日だけを見て、自分の力で強く生きていく覚悟を決めた瞬間でもあった。

住み込みで働かせてもらった新たな舞台は、大分市内で商売を営む「佐藤金物店」。そこで運命の出会いが待っていた。昼はめいいっぱい働き、夜は学校へ通う毎日。当時の「佐藤金物店」は大分の大手建設会社との取引を行い、手形は一切なし、非常に手堅い商売をしていた。「ご主人のことをね、大将!大将!って呼んでいたんだけど、本当に誠実な商売をされていたんです。本当にいい経験、いい勉強をさせていただきました」と当時のことを、昨日のことのように鮮明な描写で振り返る。「とにかく食卓に当時では高価な肉や魚が並んで、それを丁稚にも食べさせてくれるんですね。それは驚きでした。そのとき、『金物屋はいい商売だ』というのが脳と身体に刻み込まれたんでしょうね」。反抗心もある青春期だが、その分多くのことを学んだ4年間。この頃から「いつか自分も独立してやるんだ」という大志を抱くようになり、いつ訪れるかわからない、チャンスのためにと準備をはじめる。

『かねやす』の歴史時計はすでにこのとき、董美の心中で微かに型づくられていたのかもしれない。

恩師を訪ね、身体ひとつで福岡へ

「佐藤金物店」で生まれて初めてもらった給料が住み込みで1600円。卒業するときは4500円。高卒の初任給が6000円の時代。だが、董美は遊びほうけることなく、コツコツと働き、貯金をしていた。堅実な商売のもとで、生まれ持った堅実な性格に磨きをかけ、自己鍛錬を怠らなかった。

話しを戻そう。堅実な商売で自分を磨いた董美青年。卒業を迎え、進路を決める際に、前述の小学校時代の恩師を訪ね、福岡へ行くことを決断する。「仕事のあてがあったわけではないのですがね。先生が結婚して福岡で暮らされていたんで、それを訪ねていきました。身体ひとつとわずか1万円足らずの貯金を持ってです。ただ、いつか独立して成功してやるんだという気持ちはしっかりと持っていました」。歴史時計を胸に、ついに董美青年は夢の舞台を福岡へ移す。19歳、門出の春のことだった。

明日に向かって奔走した日々

福岡へ到着したが、頼みの綱の先生が不在で会えない日々。あてもなく困った董美は博多駅近くにあった日雇い労働者のタコ部屋で暮らしながら福岡の生活をはじめた。定職と住まいを求めて職業安定所などを奔走。そうしてようやく掴んだのが『福岡ニビシ』での醤油製造の仕事だった。ここで董美は妻・光子と人生最大の運命的な出会いをする。「私の方が会社では先輩だったけど、『本当によく働く人だなあ』という印象がすごく強かった」。先輩である光子との出会い、そして、結婚へ。そして長男・徹雄の誕生。その頃から、新たな職を経験していく。

「いや…どこで働いても、いつかは独立という夢がありますから、会社全体のことや仕事の効率、売上のつくり方、上司と部下の関係などいろんなことが気になって、何でも主体的にやっていました。おかげで常に成績はトップクラス。辞めるときには必ず引き止められていた」。絵に描いたような順風満帆な日々。市営住宅が運良く当たり、憧れていた自分の家庭も手にし、そして、タクシー運転手という新たな道を選択したとき、ようやく歴史時計が動きはじめる。「成績が良かったんで給料も高く、夢のための貯蓄ができたのもありますが、運転手をしていると福岡中を見てまわれる。そしていろんな情報が耳に入ってくるんです。それであるとき、『これからは西がいいらしい』という噂も聞いて、いてもたってもいられず、遂に実行に移したわけです」。長男・徹雄が小学校入学したばかりのとき。幼い妹ふたりをいれた家族5人で東から西へと、希望の明日へ向かって大きな一歩を踏み出したのであった。

トップメッセージ

学生のみなさまへ

4月に消費税が5%から8%になりましたが、3月までは上場企業を中心に中小企業でも多くの会社が、過去最高の業績を残されたことと思います。私ども「かねやす」も前年に引き続き、この平成25年3月期も創業(昭和46年)以来最高の業績を残すことができました。「消費税増税の影響も少しはあったかな」くらいで、大部分は85名の若い社員が自分の役割を理解し、一つひとつ、一日一日、積み上げてきた結果だと思っています。理想の社員像は、「必要とされる人」「信頼される人」「魅力のある人」の三つです。私の仕事は、従業員の皆さんの不満や不安を取り除き、皆さんが会社のために働きたいと思うような会社を作ること、そして人を集める会社ではなく、人が集まる会社にすることです。

以上、宜しくお願い致します。

代表取締役 安光 徹雄
安光徹雄

福岡と共に生きる企業です

「建設資材・機械工具のプロショップ(専門店)」として、福岡市内を中心に8店舗を展開。取扱い商品は1万5千点以上、取引先の企業様は3,000社を超えています。

「地域に根ざした企業」というあり方を大切にしています。時代に流されない「小さくても強い企業」をつくるため、“器(店)だけでなく心(人)が重要”という信念のもと、事業に携わる“人の成長”を通じて地元やお客様への貢献を実現します。

〇エリアネットワーク

福重店
担当:西区、中央区

 

野芥店
担当:早良区、城南区、佐賀

 

香椎店
担当:東区、アイランド地区

 

篠栗店
担当:糟屋地区、飯塚

 

太宰府店
担当:太宰府、鳥栖、久留米

 

元岡店
担当:糸島地区、唐津

 

福間店
担当:福津市、古賀市、北九州市

 

博多南店
担当:博多、天神