かねやすの歩み 第二章 すべてを懸けた原点

第二章 すべてを懸けた原点


満を持して、ふたりの男が動き出した。
一心不乱。無我夢中。
夢の実現を懸けた日々がはじまった。
もう、後戻りはできない。

昭和46年3月。ついに『かねやす』の時計は時を刻みはじめた。

福岡市早良区飯倉。すべてはここから始まりました。全財産を懸け、やっと手にした小さな借店舗。1階の店舗はわずか5坪弱、2階の住居では4畳半と6畳の2間に家族5人が肩を寄せ合って暮らす毎日。16歳の董美青年が、あの日夢にまでみた独立だった。だが当時、その手狭な店のわずかな棚を、やかんや調理器具といった一般向けの低価格商品で埋めることすら、精一杯だった。「それはもうね、なりふり構わず、死にものぐるいで働きましたよ。ここで失敗したらもう私たちには帰る場所はないんだからって。絶対に成功してやるんだという覚悟を決めていたんですね。本当に5年間、盆と正月以外は休まず。子どもが何をしようが、仕事のみ。親戚に不幸があっても出られなかった。それくらいなりふりかまわず仕事一筋だった」。

董美と同じく、両親を早くに亡くした妻・光子もまた同じ心境だった。「仕事以外は運動会があろうが何があろうが、仕事しかしていませんでした。下の子をおんぶして、ずっと店番。おかげで、子どもはしっかりとした子になりましたけどね」。確かに家族アルバムにはこのころの写真が1枚もない。そんな暇も余裕もなかった、朝6時から夜9時まで働きっぱなし。董美は当初、タクシー運転手をしながらの2足の草鞋。毎日の睡眠は約3時間。寝る暇も惜しんで働いた。半年もそんな生活を続けたのだ。病気ひとつしたことがない董美も、さすがに無理がたたり身体を壊しかけそうになる。

そんなときでも、大分での経験が頭をよぎる。「プロショップにしなくては…」。だが資金もなく、すぐにはプロの道具は揃えられない。ならばと、当時の金物店としては異例な方針に出る。当時は団地など住宅が建設ラッシュ。まず手始めに、物干の行商やカーテンレールの取り付け・交換、物置の組み立て、日用品の修理など、お客のかゆいところに手が届くサービスを行ったところ、これが大評判に。口コミで注文は増える一方。でも人手が足りない。そんなとき、心強い味方ができた。弟の俊雄夫婦だ。

俊雄は兄を追うようにして、福岡商業に進学後、『かねやす』創業当時はスーパーの一角のテナントで食品業を営んでいた。兄からは「いつか俊雄のところの売上を抜いたら、ぜひ俺の手伝いをしてくれ」と頼まれ、俊雄も承諾していたのだという。その俊雄夫婦が手伝いをかって出てくれたのだ。「初めて見る車庫のサンルーフなんかも、勉強してつくりました」。今も技術に長けた俊雄は、当時から器用で勉強熱心だった。

そんな味方を手にした『かねやす』は徐々に力をつけ、プロ用の鉋(カンナ)や高級砥石などを置きはじめ、プロショップとして片鱗をかたちづくっていく。そして、開店から5年を迎えようかとしていたとき、ついに土地から購入した念願の自分たちの店、野芥店の開店にこぎつける。光子がふと新聞でみつけた土地といい、資金面での苦労もあったが、同郷の銀行担当者に巡り会えるなど、いろいろと必然のような偶然に助けられた。「本当に大変だったけど、今となってはその5年間で、『かねやす』の基礎が出来上がったように思います」。開店から5周年目、組織を法人化。晴れて『株式会社かねやす』がここに誕生したのだった。